フランスの教育者クーベルタン男爵は、近代オリンピックの祖といわれます。
開催中は戦争を行わない等の平和の祭典としてのオリンピックの基礎を築きました。イエズス会の学校に通った彼は、最初は嫌っていたイギリスの、パブリック・スクール視察を通して見方を変えて反省し、「スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信したのだそうです。
また、「より速く(Citius)、より高く(Altius)、より強く(Fortius)」というラテン語のオリンピックのモットーは、クーベルタンと親交のあったドミニコ会のアンリ・ディドン神父の言葉です。彼は9歳からドミニコ会の学校で学び、いわゆる文武両道を成しました。司祭であり教育者であった彼も、スポーツを取り入れた教育を目指し、ともにカトリック教育の影響を受けたクーベルタンとともに近代オリンピックの歴史に名を刻んでいます。
カトリック教育は、もっと「より善く」子どもたちの可能性を信じることをモットーにしているともいえます。
しかし私たちの感覚では、オリンピックでいえば最低でも表彰台、他の国の頭を押さえてでも自国の獲得メダル数が多くなること、銅より銀、銀より金を、祈るように望むことが「よいこと」で、少ないと「敗北、ダメなこと」が常識になっていないでしょうか?
オリンピックの理念は、勝敗に限らず勝者も敗者も、お互いの健闘を心から讃え合うことにこそあるはずです。その光景の美しさは、神が創られた人間の美しさそのものです。カトリック教育はその美しさを理解できるように導くものでありましょう。
もちろん勝敗の結果がどうでも良いわけでありませんが、もし失敗や欠点があればそれを反省するところにこそ、より高みへ向かう可能性が拓けます。勝者はそれを教えてくれる友人になり得るのであって、決して『敵』ではないはずです。だからこそオリンピックが平和の祭典となり得ます。
反省する(自らを客観的にふり返る)ことのできない人が、真理を探究できるはずがありません。
ミサの最初のほうで「主よ、あわれみたまえ(いつくしみを私たちに)」と祈るのも、決して自己卑下ではなく、自らをふり返ることによって、より高く(Altius)より深く(Profundius)より広く(Amplius)真理を知るようになるためです。
オリンピックとその理念のなかに、カトリック教育の真髄を垣間見ることができました。
・参考:
・「クーベルタンとオリンピズム」https://www.joc.or.jp/olympism/history/coubertin/index.html
・"Henri Didon" CATHOLIC ENCYCLOPEDIA.:
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