同じものを観られるように


 

 学生の出身高校を訪問する機会がありました。


 人間発達学科の新しいパンフレット(このブログのフロントとほぼ同じデザインのものがあります)を携えて高校の先生とお話しします。私は初対面の先生とお話しするのは少々苦手です。ところが、その高校の卒業生の話になると、途端に話が弾みます。その初対面の先生とは同じ1人の人間──今はわが仙台白百合女子大学の学生、かつてのそこの高校生という違いはあるけれど──を通して、同じひとつの人格を観れたようです。


 授業でこんな話をします。アツアツの恋人同士が夕陽を見ながら「きれいな夕陽」「そうね」なんて言っても、厳密には同じものを観ているのではない。そんな、若い学生たちの思いを打ち壊すような話です。その映像だけ問題にしても物理的に言って全く同じ位置に眼球が重なるわけはないし、心象として映る光景ならなおのこと、それぞれの経験の違いから「観ているもの」は違うわけです。


 それにもかかわらず、わたしたちは無意識にでも(たとえ初対面の人との間でも)、同じものを観ようとするのです。


 同じ現実の中に生きていながら、どうしてこんなに見方が違うんだろう!と、時々悲しい思いをする事があります。家庭で、職場で、学校で。また香港で、ベラルーシで。

 

 しかし、たとえ悲しい思いをしても、それを乗り越えて「同じものを観ようとする」こと自体に、意味があると思いませんか? 神さまはきっと、違いを乗り越えようとする人間の、意思や努力をその間の葛藤をも含めて、貴いものにしたいとお考えなのでしょう。


 いつかきっと誰かと同じものを観られるように努力しながら、人間は人生を歩んでいるのかもしれません。



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